京都大学大学院文学研究科在学の石川祥伍さんから、『風景によせて2024 -かざまち-』の作品評を寄稿いただきました。
下記、寄稿文です。
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静かな、しかし劇的な風を待つこと:『風景によせて2024 -かざまち-』によせて
(写真:脇田友)
この世界は待つことで溢れている。動画の広告がスキップできるまで、待つ。ラーメンを食べるために行列に並んで、待つ。私たちがそこまでして待つことができるのは、自分がしたいことをいつか達成できることを知っているからだ。いつか動画を視聴できるし、いつかラーメンを食べることができる。演劇を観るという行為も、待つことにほかならない。劇場に足を運ぶとき、私たちはいまから観る作品が自分を変えてくれると期待する。感情が高まり、身体の細胞が組み換わるような、そんな劇的な変化を、待つ。
ソノノチの『風景によせて2024 -かざまち-』を鑑賞する私たちも、何かが起きるのを待つ。だが、そこで劇的なことは何一つとして起こらない。赤い衣装を着た4人のパフォーマーが、観客の眼前に広がる風景の中でじっと立っているだけだ。私たちは何かが起こることを待つために、風景のほうに目を向ける。会場のMushRoom Cafeから見える京北・山国地域の風景の手前には畑が広がり、その奥には家屋が並んでいる。後景には、低い山々が連なっていて、靄が若干かかっている。観客からみて右手には、軽トラックが道路を走る姿が見てとれる。上空を見れば、雲が広がり、いまにも雨が降りそうだ。
再びパフォーマーに視線を戻すと、パフォーマーはもといた場所とは別の場所に移動している。そのままそのパフォーマーを見ていると、そのパフォーマーがゆっくりと動いていることに気づく。別のパフォーマーに視線を移すと、そのパフォーマーもさっきいた場所とはちがう場所に移動している。あらためてもとのパフォーマーを見ると、そのパフォーマーはいない。パフォーマーは見事なまでに木の後ろに隠れていたのだ。4人のパフォーマーは見ないうちに場所を移動したり、消えてはまた現れたりする。
パフォーマーが木の後ろに消え、また観客の前に現れるとき、パフォーマーは観客の目には大きな赤い点のように映る。パフォーマーが木の後ろに隠れるとき、赤い点は緑になり、パフォーマーが木の後ろから出現するとき、緑はふたたび赤になる。赤が緑となり、緑が赤になることは、まるで信号機が黄色の灯火を挟まずに、突然「進め」、「止まれ」と命令するかのような、劇的な変化だ。何の前触れもない色の劇的な変化が、私たちのもとに静かにやってくる。
この劇的な変化を保証しているのは、風景の広さである。私たちは雄大な自然を前に、どこへと視線を向けていいかわからない。多くの場合、演劇を鑑賞する観客の意識は、登場人物の発話や大きな身体の動きといった「何か」が起きているところに集中する。観客はその発話や動きの中で起きる劇的な変化を待つ。だが、『風景によせて2024 -かざまち-』におけるパフォーマーは発話せず 、ただゆっくりと動く。非常に遅いパフォーマーの動きを劇的な変化として受け取るために、私たちはある一定の時間、パフォーマーを見ないことが必要になる。つねに特定のパフォーマーを見ていれば、ただパフォーマーがゆっくり歩いているという連続的な動きをとらえるだけだ。しかし、私たちはどうしても目の前の風景に気を取られる。パ
フォーマーの後景に広がる風景のさまざまなディテールを見ることを、風景によって要請されているかのように。私たちがそのパフォーマーを見ていないあいだにパフォーマーが移動した距離によって、私たちはパフォーマーの動きを劇的な変化として認識することができるのだ。
風景を見ることで、パフォーマーのゆっくりとした動きが劇的な変化としてとらえられるという事態は、その逆もまた然りである。つまり、私たちはパフォーマーを見ることで、風景のゆっくりとした動きを劇的な変化としてとらえることもできるだろう。それを可能にするのは、風景の大部分を占める緑から浮いている、パフォーマーが着ている赤い衣装だ。ゲシュタルト心理学における有名な「図と地」の図式にあてはめると、私たちがパフォーマーという「図」を見ていると、その後ろに広がる風景は「地」として機能し、反対に風景という「図」を見ていると、パフォーマーは「地」となる。すなわち、私たちは何かを見ないことで別の何かを見ることができる。パフォーマーがいるからこそ、私たちは風景を見ることができるのだ。
風景とは「地」が「図」になるときに立ち上がるものだ。ゲシュタルト心理学における「地」を、「地平」と言い換えたエドムント・フッサールに倣い、清水真木は風景を「地平だったもの」と定義する。清水によれば、風景を見るという経験は、「地平だったものが地平ではなくなるとき、この地平ではなくなったものを地平だったものとしてあとから把握し直す作業」 (★1)だ。『風景によせて2024 -かざまち-』に引き寄せて考えると、パフォーマーを見ていた私たちがそれまで意識していなかった風景という地平を意識する瞬間、風景を「地平だったもの」としてアポステオリに理解し、観客は真の意味ではじめて風景を見る。
清水が風景を「地平だったもの」と完了形で定義するように、風景を見る経験はつねに現在という時間において成立する。なぜなら、風景を見る経験は「地平を想起し製作すること」 (★2) にその本質があるからだ。地平の想起とは、それまで地平だったものを「それは(さっきまで自分の意識に上ってこなかった)地平だった」と現在における語りとして遂行することだ。『風景によせて2024 -かざまち-』においても、パフォーマーを通じて浮かび上がる風景を「それは地平だった」と感じることで、観客は風景をいま、ここにおいて製作する。
清水が指摘するように、想起とは過去の再現ではない (★3) 。この作品で印象的なパフォーマーの衣装の赤と、パフォーマーが持つ旗の白は、かつて山国地域で結成され、官軍側で戊辰戦争を戦った山国隊の錦の御旗の色を想起させる。だが、私たちはソノノチの作品を山国隊の再現 (representation) として見てはいけない。風景を過去の出来事の再現として把握すれば、風景という概念が歴史的に抱えているナショナリズムによって、容易に「日本」という形容詞に結びついてしまう (★4)。
ジャック・デリダが言うように、想起(アナムネーシス)とは「(日本の)原風景」という過去の起源に参照することなく、「現前したことのない過去の記憶 、未来の記憶——ただ単に過去にだけでなく未来に結ばれたものとしての記憶の運動 、約束のほう、やって来るもの、到来=生起するもの、明日到来=生起するもののほうを向いた記憶 」 (★5) をその都度つくりだすことだ。このことは、風景が「風でつくられた景色」であることを思い出せば理解できる (★6) 。風は連続的に吹いているがゆえに、どこから吹き始めたのかという起源をもたない。だから、私たちは風景を見るとき、風をただ「やって来るもの」として待つことしかできないのである。
作品のタイトルである『風景によせて2024 -かざまち-』の「かざまち(風待ち)」とは、「船が出航する際、順風を待つ様子」を表す単語だ (★7) 。航海士は順風を待つために、ただ甲板に出て身体で風を感じるのではなく、天気図や気圧計を用いて風の強さや方向を視覚化する。この作品においても、パフォーマーは風を目に見える形で観客に提示する。上演中、一人のパフォーマーが両腕を地面と水平に上げる。すると、両腕についた振袖のような布
が風でなびく。もう一人のパフォーマーは白い旗を持ち上げる。その旗も風を受けてはためく。パフォーマーは風を待つ航海士のように、衣装と旗という二つの装置を用いて風を視覚化する。
観客はパフォーマーによって可視化された風を見ながら、順風が来るのを待つ。私が観劇した回は、雨が降っては止んでという不安定な天気に見舞われた。航海士が港で強風や時化が収まるのを待つかのように、観客はレインコートを羽織ったり、傘を適宜差したりしながら、観劇をつづけていた。その姿勢は上演前後も変わらない。雨で開演が遅れているあいだ、観客は会場のカフェで温かい飲み物を飲みながら、雨がおさまるのを待っていた。終演後も観客は外の焚き火で暖を取ったり、地元の野菜を使った軽食を味わったり、談笑を楽しんだりしていた。会場は、江戸から明治時代にかけて北前船と呼ばれる貨物船が停泊し、船乗りたちが順風を待つのに利用した風街港のように賑わっていた (★8) 。
ソノノチのランドスケープシアターという演劇=劇場は、過去にだれかによって準備されたものではなく、観客がその風景を見ることによって、現在において立ち上げられる。そのとき、私たちははじめて風景の劇的な変化に遭遇することができる。なぜなら、風は突然どこかから吹いてくる「予想不可能な出来事としてのかぎりで 到来する(もの)」 (★9) だからだ。私たちは風街港の船乗りのように、その風がやって来るのを待っている。
注:
★1:清水真木『新・風景論——哲学的考察』、筑摩書房、2017年、p.203
★2:同書、同頁
★3:同書、p.204
★4:近代日本史における風景とナショナリズムの関係については、福井慎二「志賀 重昂『日本風景論』:地理学とナショナリズム」などを参照のこと。
★5:ジャック・デリダ「パサージュ——外傷から記憶へ」、守中高明訳、『現代思想』1995年1月号、青土社、p.57-58(原文は、傍点強調)
★6:もともと「風景」という語は、3から4世紀ごろの中国で、「風と光とで眼前に広がる自然」を指して用いられていたと言う(平凡社『改訂新版 世界大百科事典』「風景」より)。
★7:ソノノチ「開催レポート/『風景によせて2024 -かざまち-』」、2024年11月24日、https://sononochi.com/report_keihoku-kazamachi/(閲覧日:2025年1月27日)
★8:関野章代「北前船の足跡を訪ねて」、梅花女子大学食文化学部紀要、2021年3月、p.1
★9:ジャック・デリダ 、エリザベート・ルディネスコ『来たるべき世界のために』、藤本一勇・金澤忠信訳、岩波書店、2003 年、p.72-73(原文は、傍点強調)
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石川 祥伍さん
2000年生まれ。静岡県沼津市出身。現在、京都大学大学院文学研究科修士1年。ワークショップ「書くことのプラクティス」を企画。
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演目:『風景によせて2024 -かざまち-』
日程:2024年11月23日(土)- 24日(日)
場所:MushRoom Cafe から見る、京北・山国地域の風景
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本作品の上演に関するレポートをweb上で公開しています
作品の創作過程をたどる読み物として、上演までのプロセスや、パフォーマーの言葉やクリエイションメンバーによるコラム、寄稿を掲載しています。こちらもあわせてご覧ください。https://sononochi.com/report_keihoku-kazamachi/
髙室幸子さんとのアーティストインレジデンストーク
滞在をコーディネートしてくださっている一般社団法人パースペクティブの髙室幸子さんとソノノチの中谷和代が、レジデンス施設でトークを行いました。今回の作品のこと、高室さんとソノノチの歩み、今回のタイトルに込めた想い、京北地域でアーティストインレジデンスについてのことを話しています。https://www.youtube.com/watch?v=95NsX63rYgY&t=1s